働き盛り世代の患者さんに聞く
~水田悠子さん(子宮頸がん)の場合~

Interview

働き盛り世代の患者さんに聞く

治療の後遺症をバネに、
大好きなビューティーで
会社を立ち上げる

水田 悠子さん
(会社代表・39歳)

Yuko Mizuta

水田悠子さん(子宮頸がん)の場合

化粧品会社で新商品の企画担当をしていた水田悠子さん。子宮頸がんが見つかったのは、「仕事もプライベートも全力投球で楽しんでいた」という29歳の春でした。大好きな仕事を休職して治療に専念し、ようやく治療を終えたと思ったら、今度は治療の後遺症でリンパ浮腫を発症。何ごとに対してもやる気を失っていた水田さんですが、大きな転機が訪れます。仕事、人間関係、恋愛、結婚、子どもをもつことができるのか-。さまざまな悩みを抱えながらも諦めず全力投球を続けている水田さんに、がんと後遺症への向き合い方、前に進めるようになったきっかけについて伺いました。

プロフィール

水田 悠子 さん Yuko Mizuta (会社代表・インタビュー時39歳)
【疾患】子宮頸がん
【発症時の年齢】29歳
【主な治療】
・手術、化学療法(抗がん剤治療) など

ペイシェントジャーニー

ペイシェントジャーニー

がん告知 始まりは不正出血から

がんが見つかったのは29歳(2012年)ということですが、その当時はどのような生活をされていたのですか。

水田さん:大学卒業後、大好きだったビューティー関連の仕事に就くことができた私は、化粧品会社の新商品を開発する部署で、大きなやりがいを持って働いていました。プライベートでは、会社の同期の女子3人でルームシェアをし、一緒に遊んだり、旅行をしたり。付き合っている彼とも順調で、公私ともに充実した日々を送っていました。

そんな水田さんにがんが見つかったときのことを教えてください。

水田さん:2012年の2月頃から軽い不正出血が続いていたのですが、「生理が早く来たのかな」とあまり気に留めていませんでした。しかし、何回も続くようになり、当時の彼に勧められて検査を受けました。結果は陰性で、「出血しやすいのは、びらんができているから」と言われました。膣剤で治療しながら通院を続けましたが、なかなかよくならず、念のため、4月末に大学病院で検査を受け、1週間後に予約をして帰りました。

それで1週間後に受診したときに、告知されたのでしょうか。

水田さん:その前に、大量出血が起こりました。友達と遊びに行った帰り、電車を乗り換えようとしていたときでした。生理とは明らかに違う出血だったので、タクシーで先日受診した大学病院に向かいましたが、ゴールデンウィーク中だったので、当直の先生が止血の処置をしてくれただけで、休み明けに来てくださいと言われました。
それから、インターネットで症状に当てはまりそうな病名をひたすら検索しました。「子宮頸部異形成(子宮頸がんの前段階[前がん病変])」のワードがヒットし、ある程度覚悟して、結果を聞きに行きました。

検査の結果、どのような話をされたのですか。

水田さん:9時の予約のはずが12時近くになっても呼ばれず、悪い結果だから順番が後回しになっているのかもと、不安が募るばかりでした。ようやく呼ばれ、診察室に入ると、先生が「あっ、1人で来られたのですか?」と。その質問の意味が、後になってようやく分かりました。子宮頸がんであること、治療を急がなければならないこと、子宮を残せないことなどを、一気に告げられました。そして、最短で〇日には手術できるので、◇日には家族と来るようにと、次々と話が決まっていきました。

聞きながらどう思いましたか。

水田さん:自分の予想をはるかに超える悪い展開に、途中から頭がついて行かなくなり、消え入りそうな声で、「ちょっと待って」と言ったのを覚えています。
がんを告知されたとき、「号泣した」という話をよく聞きますが、私の場合、頭の中が真っ白というか、シーンとした状態でした。とにかく落ち着こうとしていたのかもしれません。

がんになってしまったことを最初に誰に伝えたのですか。

水田さん:診察室を出て、すぐに上司に電話しました。その日は午後から出社するはずでしたが、とてもそんな気分にはなれませんでした。上司は私の気持ちに寄り添って話を聞いてくれ、「気が動転しているだろうから、電車でなくタクシーで帰りなさい」と言ってくれました。
それから、タクシーの中で当時つき合っていた彼に連絡しました。早くから受診を勧めてくれていた彼に申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、「一番つらいのは君だから」と慰めてくれました。
そして、3番目に父に話しました。医療関係の仕事をしていた父は「絶対に最良の治療を受けさせるから」と力強く言ってくれました。あとから帰宅した母も、「じゃ、治すしかないわね」と。「がんは治る病気。いまは『昔がんになったけど、こんなに元気になったよ』と言える時代なのよ」という母の言葉がいまも心に残っています。両親が動じず、前向きに寄り添ってくれたことで、私も「目の前にあることから逃げず、前に進むしかない」と思えるようになりました。

水田 悠子 さん

治療か?子どもか?

すぐに治療が始まったのでしょうか。

水田さん:実は、告知後に、別の病院に転院しています。というのも、子宮頸部だけを摘出し、妊娠能力を残せる広汎子宮頸部摘出術(トラケレクトミー)という方法があることを知り、その手術が行える病院でセカンドオピニオンを受けたのです。検査の結果、この手術には適応せず、卵子凍結も考えたのですが、先生から「子宮を摘出するから自分では産めないし、代理母出産も今のところ日本では認められていない」と説明されました。少ない可能性のために治療を遅らせるのはデメリットが大きいと考え、悲しい気持ちに蓋をして、告知から3週間後にこの病院で子宮と卵巣の摘出手術を受けました。

大きな決断の連続だったと思いますが、迷いはなかったですか。

水田さん:がんを告知された恐怖は、言葉に尽くしがたいものでした。だから、私は、「どんなに副作用がつらくても、一番効果が望める強い治療を選択して、完治させる」「二度とこんな怖い思いはしない」と心に決めました。
また、精巣がんになったアメリカ人のサイクリストが書いた本の中にあった、「一番大事なのは、自分で考えて自分で決めること」という言葉が、常に頭の中にありました。なので、重大なことを決めるときは、周囲の意見に頼らず、「私はこうしたいけど、どうかな」と聞くように心がけています。たとえば、彼氏にも、「治ることを最優先して、子どもを諦めようと思うのだけど、いいかな」というふうに話しました。

強い治療の代償

治療中もたくさん苦労があったと思います。

水田さん:大きな病気をしたことがなかったので、検査も手術もどんなことをするのか分からず、ただ恐怖でした。手術は8時間にも及び、術後は高熱に苦しみましたが、さらにつらかったのは、体中から何本もの管が出ていて、身動きが取れなかったことです。管が一本ずつ抜け、気持ちが上向きになりかけてきたとき、主治医の先生から、「がんは切除できましたが、来週から抗がん剤です」と告げられました。
もともと腫瘍が大きく、細胞のたちが悪い(転移しやすい)ことは、手術前から分かっていたので、術後化学療法が必要だと言われていました。完治のために強い治療を望んだのは私で、心づもりはできていたはずでしたが、「せっかく元気になってきたのに、またか…」という、どうしようもない悲しみがわき上がり、そのとき初めて泣いてしまいました。

抗がん剤の副作用はどんなものがありましたか。

水田さん:倦怠感や味覚障害、関節痛などがありました。私は、抗がん剤といえば、まず吐き気だと思っていたのですが、よい吐き気止めのお薬もあり、食事ができないほど気持ち悪いことはありませんでした。いずれの副作用も、想像していたよりは軽かったと思います。
脱毛も起こりましたが、抜ける時期を前もって教えられていたので、心の準備もできていましたし、気に入ったウィッグを探す時間も十分にありました。

医療従事者との関係はいかがでしたか。聞きたいことなどは聞けたでしょうか。

水田さん:主治医の先生にはいろいろ質問しました。モンスターペイシェントと思われているかもしれません(笑)。でも、いまはいくつかの選択肢の中から、一番よいと思うものを自分で選ぶ時代ですから、「先生の言う通りにします」といった考えは最初からありませんでした。看護師さんも生活や副作用といった悩みについて、親身になってくれたので、信頼してさまざまなことを相談しました。

治療中、心の支えや目標になったものはありましたか。

水田さん:術後化学療法中に、ルームシェアしていた友人2人の結婚式があるということで、出席を目標に治療を頑張り、治療の間隔を調整してもらって結婚式に参列することができました。時間的な目標があったことは、モチベーションを維持するうえでも大きかったと思います。

リンパ浮腫発症 リンパ浮腫は手遅れにしたくない

ペイシェントジャーニーの図にありますが、がんの告知でどん底に落ちた気持ちは、なかなか上向きにならなかったのですね。

水田さん:がんになってからというもの、結婚、出産、育児、昇進、家の購入など、人生を謳歌している同世代と自分を比べ、いつも孤独感を感じていました。さらにリンパ浮腫を発症して、先が見えず、仕事に戻りたいという気持ちも起こりませんでした。

リンパ浮腫に、どのように気づいたのか教えてください。

水田さん:術後化学療法を終えて4ヵ月後、左脚の付け根あたりに違和感があらわれました。皮膚の中に水たまりがあるような感じです。リンパ浮腫はがん治療の副作用の一つで、リンパの流れが滞り、手や足にむくみが生じる進行性の病気と知って、あまりのショックで現実を受け入れられるまでには相当な時間がかかりました。

水田 悠子 さん

どのようなショックが大きかったのですか。

水田さん:一つは、「なったら一生治らない」というショック。そして、もう一つは、分厚いギプスのような弾性ストッキングを毎日履き続けなければいけないという絶望感です。リンパ浮腫では、進行を食い止めるため、弾性ストッキングによる圧迫などの毎日のセルフケアが重要になります。段ボールでできたような分厚いストッキングを毎日履くと考えただけで、気持ちが滅入ってしまいました。

セルフケア以外の治療法を受けたことはありますか?

水田さん:私は、リンパ浮腫に対して、自分から積極的に最善の治療法がないか情報を探したり、医師に質問したりした結果、たまったリンパ液を静脈に流すためのリンパ管静脈吻合(ふんごう)術(LVA)を3回受けました。最初の手術は、術後化学療法を終えてから半年後くらいです。当時はまだ、エビデンスも少なく、手術できる施設も限られていると言われましたが、手術を即決しました。私には、「がんを早期発見できなかった」という後悔が強く、「リンパ浮腫は手遅れにしたくない」「できることをすべて試したい」という思いがあったからです。

全身のリンパ液は最終的には心臓の近くの太い静脈に流れ込みます。しかし、リンパ浮腫では、リンパの路(リンパ管)が途中で閉塞しているため、リンパ液が皮下組織にたまってしまいます。そこでリンパ管静脈吻合術(LVA)で、バイパス(迂回路)をつくり、たまったリンパ液を静脈に流しますが、この手術はリンパ管を再生させるものではないので、今のむくみを劇的に改善することはなく、術後も弾性ストッキングやマッサージなどでリンパの流れを手助けする必要があります。また、一回の手術で作れるバイパスの数には限界があるので、経過をみながら、手術を追加することがあります。

(国立がん研究センター 東病院. リンパ浮腫の外科的治療について, 2023年1月19日閲覧, https://www.ncc.go.jp/jp/ncce/clinic/plastic_surgery/ps/04.html

復職 気持ちはどん底のまま職場復帰へ

1回目のリンパ浮腫の手術後に、職場復帰されたのですね。

水田さん:はい。休職は1年半近くになっていました。がんになる前は、仕事が大好きで仕事中心の生活をしていたのですが、復職のタイミングでは、以前と同じように仕事ができる気がまったくしませんでした。
そこで、とても勇気がいったのですが、上司に相談したところ、これまでより負担の少ない仕事を提案してくれ、「水田さんが違ったスキルを身に付けてくれたら、チームも助かるんだけど」と言ってくれました。無理なく復帰できたのは、そうした上司の配慮が大きかったと思います。

復帰後、すぐに職場に適応できましたか?以前のように働けるようになったのでしょうか。

水田さん:4年くらいやる気が出ず、「定年まで窓際族でいい」「ずっと仕事をしない訳にはいかないから会社に居よう」ぐらいに思っていました。というのも、私が所属していたチームでは、2年後に発売する商品を企画していて、「この商品が世に出るまでに、私は再発してここにいないかもしれない、みんなに迷惑をかけてしまうかもしれない」と、そんなことばかり考え、仕事への向き合い方が分からなくなっていました。

抜け出すきっかけはあったのでしょうか。

水田さん:がんのサバイバー仲間に出会い、認定NPO法人マギーズ東京でボランティアをしたことが、大きな転機となりました。チャリティーグッズの開発に携わったのですが、仕事で培ってきたスキルが、がん患者さんの役に立つことに気づいたのです。それまでは、「がんは個人的なことだから、会社では、がんを忘れて仕事に邁進(まいしん)しなければいけない」と苦しんでいたのですが、個人の経験と仕事は融合できるんだと気づいたら、少しずつ気持ちが楽になりました。

公私ともに大きな変化 未来を生きる

それからは、気持ちも上向きになっていったのですね。

水田 悠子 さん

水田さん:自分で設けていた手術から5年目という節目を迎え、気持ちが前向きになってきました。それまで、ずっと「がん真っ最中」で生きてきましたが、「この後も人生を送れそう」と未来が見えました。未来が見えてくると、一緒に歩んでくれるパートナーが欲しくなりました。

そういうパートナーは見つかりましたか。

水田さん:がんが見つかったときに付き合っていた彼とは別れてしまい、新しい出会いを探していました。でも、がんのことや子どもができないことをどうやって伝えればよいのか分からず、悩みました。そんなマニュアルはどこにもなくて-。
幸い、私のことをよく知る、以前からの知人と縁があって結婚することになりました。がんを発症して5年目は、結婚したり、仕事でも出向や昇進が決まったり、公私ともに忙しい一年でした。少しずつ自分の体調にも自信を取り戻しましたが、リンパ浮腫という悩みと向き合う日々でもありました。
リンパ浮腫は、疲れをためたり、傷をつくったりなど、足に負担をかけないように常に気を付けるように医師に指導されます。中でも、透けないラクダ色で、分厚いカーテンのような素材でできたストッキングを朝ベッドから降りる前から、夜お風呂に入るまで毎日履かないといけませんでした。

起業 よい商品がないなら、私が作ろう

リンパ浮腫になったことは、水田さんにどんな影響を与えましたか。

水田さん:それまで、ファッションに関しては、自分が好きなものを選んで、自分のセンスで着るのが当たり前でした。楽しく選んで、楽しく身に着ける。それができなくなるなんて、考えたこともありませんでした。私の求めているストッキングを作れないだろうか。透明感があって、普通に外にも履いて行ける自然なストッキングを-。その思いは、「がんの人が一生幸せに生きていくための事業を立ち上げたい」という夢と重なり、自分と同じくリンパ浮腫に悩む方のための商品を手掛ける会社を設立することができました。

機能性だけでなく、ファッション性もある商品を開発しようと考えられたのですね。

水田さん:がんになったとき、「命さえ助かれば、何もぜいたくは言わない。一生髪が生えてこなくてもよいから」と神に祈りました。でも、元気になってくると、命はもちろん大切だけど、自分が大切にしていたものまで諦めたくないと思うようになりました。これからもビューティーに関わって生きていきたいと。

水田さんは、がんになったときも起業されるときも、大事な決断は自分でされてきたと思います。後悔はなかったですか。

水田さん:決断に失敗したと思わず、それがそのときの最善の決断だったと思って、受け入れるようにしています。それでも後悔があるとすれば、妊孕性(にんようせい)の温存(子どもをもつ可能性を残すこと)についてとことん調べなかったことです。当時は主治医に難しいと言われた時点で、治療を優先させてすぐに諦めてしまいました。
また、自分の気持ちを吐き出したい一心で、友人に気軽にがんについて話していたのですが、それは相手にショックを与えることだと気づきました。しかし今は、マギーズ東京のように友人や家族もサポートする施設や窓口がありますし、このサポートによって、患者側も「周囲の人に心配をかけて申し訳ない」といった気持ちが少し楽になるのではないかと思っています。

好きなことを諦めないで

最後に、がんで悩んでいる方にメッセージをお願いできますか。

水田さん:それぞれステージも治療も違うので、一概には言えませんが、私から言えることがあるとすれば、「想定外の大きな病気になった状況で、一日一日を生きて乗り越えているだけで100点満点です。だから、あれをしなきゃとか、元気にならなきゃとか何も思わないで」ということです。
リンパ浮腫の方には、「リンパ浮腫は治らない疾患と聞くと、とても恐ろしく感じると思いますが、最近ではケアの方法も色々と出てきています。仕事や趣味など好きなことを諦めず楽しめるよう、ぜひ主治医などに相談してみてください。あなたはひとりではありません」と伝えさせていただきます。

水田さん、ありがとうございました。

(原稿作成 2022年12月)