働き盛り世代の患者さんに聞く
~岸田徹さん(胎児性がん)の場合~

Interview

働き盛り世代の患者さんに聞く

がん経験者の生の声を届ける
「がんノート」を発足

岸田 徹さん
(NPO法人がんノート代表理事・35歳)

Toru Kishida

岸田徹さん

面白いことが大好きで、大学時代には世界一周も経験したという岸田さん。ベンチャー企業に入社し、忙しいながらも充実した日々を送っていた社会人2年目、25歳で胎児性がん※1という希少がん※2を発症しました。その後、がんは精巣に再発。治療の後遺症に悩む中で一番困ったのは、同じ後遺症のリアルな情報がないということでした。そんな自身の経験を活かし、インターネットでがん患者さんに向けて情報発信を続けている岸田さんに、若い世代ならではの困りごとや活動のきっかけについて伺いました。

※1 胎児性がんは悪性の胚細胞腫瘍の一つであり、胚細胞腫瘍とは、原始生殖細胞という胎児(赤ちゃん)のもととなる未熟な細胞が成熟する過程で発生する腫瘍の総称です。
(恩賜財団済生会. 胚細胞腫瘍はこんな病気, 2023年1月18日閲覧, https://www.saiseikai.or.jp/medical/disease/gern_cell_tumor/

※2 希少がんは、人口10万人あたり6例未満のまれながんの総称です。
(国立がん研究センター 希少がんセンター. さまざまな希少がんの解説, 2023年1月18日閲覧, https://www.ncc.go.jp/jp/rcc/about/index.html

プロフィール

岸田 徹 さん Toru Kishida (NPO法人がんノート代表理事・インタビュー時35歳)
【疾患】胎児性がん
【発症時の年齢】25歳
【主な治療】
・胎児性がん…手術、薬物療法(抗がん剤)
・精巣がん…手術

ペイシェントジャーニー

ペイシェントジャーニー

社会人2年目で見つかった希少がん

がんが見つかったときのことを教えてください。何か自覚症状はあったのでしょうか。

岸田さん:社会人2年目の春、首にボコッとした腫れものができているのに気づき、近所のクリニックを受診しました。そのとき、異常は見つからず、その後に受けた会社の健康診断でも何も指摘されませんでした。ところが、秋になると、体調を崩しがちになり、体調の良い日と悪い日が交互にやって来るジェットコースターのような日々を過ごすようになりました。腫れものも徐々に大きくなってきていたので、心配になって別のクリニックに行くと「不調の原因は、首の腫れものかもしれない」と大学病院を紹介されました。

そこでがんと診断されたのですね。

岸田さん:大学病院の耳鼻科で受けた血液検査で異常が見つかり、「リンパ腫かもしれない」と言われました。その後、血液内科のある系列の大学病院を紹介され、生検などの詳しい検査を受けた結果、首にできた腫れものの原因は「胎児性がん」という非常に珍しいがんだということが分かりました。

「がん」と言われて、どんなことを思いましたか。

岸田さん:「リンパ腫」と言われたときは、文字通り「リンパが腫れているんだろう」くらいにしか思っていませんでした。でも、がんと言われた瞬間、「えっ?がん!?」と、全身に衝撃が走りました。「がん」という言葉の重さ、インパクトは大きかったです。

社会人になったばかりだったそうですが、ふだんから健康は意識をされていたのですか。

岸田さん:ハードな仕事をしていたので、健康には気をつけていたつもりです。週1回ジムに通ったり、コンビニでお弁当を買うときはサラダをつけたりして自分の中では「健康に気を使っている自分、若いのに偉いな。うん」と思っていました(笑)。

どのような仕事をされていたのでしょうか。

岸田さん:大学卒業後、東京でIT関係の会社で営業職として働いていました。できたばかりのベンチャー企業で社員の数が少なかったこともあり、営業以外にもいろいろな仕事に携わっていて、かなりの仕事量をこなしていました。会社の近くにマンションを借り、忙しいけれどとても充実した毎日を過ごしていました。

「5年生存率は五分五分」でも…

がんになったことを誰に最初に伝えましたか。

岸田さん:職場の上司です。がんを告知されてすぐに頭に浮かんだのは、「仕事やクライアントをどうしよう」ということでした。いま思うと、上司も20代でしたから、部下ががんになるという経験は初めてで動揺していたと思いますが、落ち着いて話を聞いてくれて、今後のことを一緒に考えてくれました。
入院中も上司をはじめ社長や幹部の方たちがお見舞いに来てくれて、「戻ってくるまで待っているから」と言ってくれました。この言葉が本当にうれしかったですね。自分が戻れる場所があるということは、闘病における大きな支えになりました。

ご家族の反応はいかがでしたか。

岸田さん:上司の次に、両親に話しました。すぐに大阪から上京してくれた両親と一緒に、医師から詳しい病気の説明を聞いたのですが、隣りを見ると、両親がこの世の終わりのような表情で先生の話を聞いていました。
両親にこんな顔をさせてしまったことが申し訳なく、「大丈夫!何とかなるよ」「治療頑張るから」と、反対に僕が両親を励ます状況になったのを覚えています。まさに、若い世代の患者さんあるあるですよね…(笑)。

医師からはどのような説明をされたのでしょうか。

岸田さん:大学病院から最終的にがん専門病院を紹介されました。そこで、すでに全身に転移していることが分かり、僕のほうから先生に、「あと、どのくらい生きられるのですか」と聞いたところ、「5年生存率は五分五分です」と言われました。この数字をどう考えるかは人それぞれだと思いますが、僕には希望に見えました。「それなら、何とかなるかもしれない」と思ったのです。

そんなふうに思える理由があったのですか。

岸田さん:大学生のときに夢だった世界一周旅行をしたのですが、その際、治安の悪い国にも行き、銃を突きつけられ、かなり危ない目に遭ったことがありました。その後、軟禁生活も一週間ほどあり、命からがらそこから脱出するという命の危機をすでに経験していましたから、「それに比べたら、五分五分なんてよいほうだ」と思えたのかもしれません。

がんと向き合う覚悟はすぐにできましたか。

岸田さん:がんを告知されたあとは、治療や入院、会社の引継ぎのことなど、すぐに決めなくてはいけないことばかりで、落ち込んでいる暇などありませんでした。
自分の病気と本気で向き合ったのは、入院して治療を始めてからです。インターネットで調べましたが、同じがんや同年代の患者さんがほとんどおらず、自分の先の見通しが立たず、かなり落ち込みました。

不確かな情報やネガティブな情報もあったと思いますが、そんなときはどうされていましたか。

岸田さん:まず、発信元や参照元をチェックするようにしていて、不確かな情報は見ないようにしていました。また、不安や恐怖が大きくなったときは、僕の場合は、信頼できる人に話すことで、頭が整理され、気持ちを落ち着けることができました。
このような経験から、話す相手は、家族でも第三者である医療者やがん相談支援センターの職員でもよいので、話すことの大切さをよくアドバイスしています。

抗がん剤の副作用で「抗がん剤パーマ」に

どのような治療を行ったのですか。

岸田さん:僕のがんはかなり大きかったので、抗がん剤で小さくしてから、摘出手術を受けました。
手術前の抗がん剤治療では、高熱に悩まされました。そんなときは急に気弱になり、「こんな若くしてなんで、がんに…」「なぜ、こんなつらい思いをしなければならないんだろう」と夜中に泣いてしまったこともあります。僕の場合、体調とメンタルは、とてもリンクしていたように思います。

岸田 徹 さん

ほかに抗がん剤の副作用はありましたか。

岸田さん:抗がん剤の副作用といえば、脱毛や吐き気、高熱というイメージしかなかったのですが、口内炎や歯の激痛など、予想外の副作用も経験しました。吐き気を止める薬のお陰で吐き気に悩まされることがなかったのは、よい意味で意外でした。
脱毛については、当時営業職で20代ということもあり、かなり心配していました。看護師さんに相談すると、アピアランス(外見)ケアを行っている院内の専門センターを紹介してくれたので、そこで、ウィッグを試着させてもらったり、選び方のコツを教えてもらったりしました。治療後、髪は生えてきましたが、抗がん剤の影響からか髪質が変わり、クセ毛になってしまいました。「抗がん剤パーマ」と名付けたところ、友人たちのウケもよく、闘病中でもこうしたユーモアは大事だなと思いました。
便秘にもなりましたが、20代の僕としては、女性の看護師さんに便秘の相談をするのが恥ずかしく、我慢してしまって痔にもなってしまいました(笑)。

職場復帰後、すぐに退職

手術後の抗がん剤治療後、職場にはすぐ復帰されたのですか。

岸田さん:仕事のことはずっと気がかりで、早く復帰したかったのですが、体力がかなり落ちてしまい、職場復帰までに約1年半かかりました。
少しずつ以前の働き方に戻していけばよかったのですが、どんどん仕事がしたくなって仕事量を急に戻したら心身に不調をきたしてしまい、結局、約半年で仕事を辞めることになりました。「いろんな人に励まされて、これから貢献していこうと思っていたのに」とかなり落ち込みました。

経済的な不安はありませんでしたか。

岸田さん:がんが見つかってから再就職まで、お金には本当に苦労しました。がん保険にも入っていませんでしたし、社会人になったばかりで貯金もほとんどなく、人に面倒をかけたくないと思いながらも、親や友人から借金をして何とかしのいでいました。退院してからも定期的に検査を受ける必要があり、数ヵ月に1回の大きな複数の検査では5万円ほどかかることもありましたし、検査や体調不良などで休みが多いと給料もその分減ります。家賃を節約するため、風呂なし、エアコンなしの6畳一間のアパートに引っ越し、不健康なことは分かっていましたが、1日1食、「もやし」と「紅生姜」が主食の超倹約生活を送ったりもしていました。
退職して「これからどうしよう」と思っていたところ、僕のSNSを見た国立がん研究センターの医療者から広報で働かないかと誘われて働くことになり、こんなふうに人ってつながっていくんだなと実感しました。

再発で妊孕(にんよう)性※3の問題に直面

※3 妊孕性は女性だけでなく男性にも関わる「妊娠するための力」のことを言います。

(国立がん研究センター がん情報サービス. 症状を知る/生活の工夫, 妊よう性, 2023年1月17日閲覧, https://ganjoho.jp/public/support/fertility/index.html

ベンチャー企業を退職後、体調は回復されたのでしょうか。

岸田さん:体調も少しずつ回復していた矢先に、がんが再発しました。今度は、精巣にがんが見つかったのです。
毎回検査のたびにドキドキしていましたが、このときは精巣(睾丸)の大きさが違ったので、「もしかして」という思いもあり、検査のあと結果を聞くまでの数日が、本当に長くて不安でした。こういうときに限って、三連休を挟んだりするのです(笑)。

一度目のがんを告知されたときと、受け止め方は違いましたか。

岸田さん:最初のときは、学生時代に世界一周もして、やりたいことをある程度やりきった状態だったので、がんに対する驚きはあれど、再発ほどの衝撃はありませんでした。また、再発したときは、いろんなことをやっていきたいと思っていたときだったので、ショックは大きかったです。

たくさんの不安の中、一番つらかったこと、心細かったことはどんなことでしたか。

岸田さん:最初のがんが見つかったとき、医師から抗がん剤の性機能への障害について説明を受け、勧められるままに精子の凍結保存を行いました。このときは、まだ、性機能も保たれていたので、妊孕性の問題について、それほど真剣に考えていませんでした。
しかし、2回目のお腹の手術の後遺症で、性機能に障害が残りました。射精障害というもので闘病生活を通して、これが分かったときが一番つらかったです。医師からは「様子を見よう」と言われるだけで、ネットでも欲しい情報は見つからず、暗い海に投げ込まれたような気持ちになりました。自分の人生では、恋愛して、結婚して、子どもを授かるということが「普通」だと思っていたのに、普通ではなくなってしまった。他の人とは違う、欠陥品となってしまったんだ自分は、という気持ちになりました。

暗闇の中、支えになったものはありましたか。

岸田さん:それまでもがんになった人のブログなどを見て、参考にすることはありましたが、僕のがんは珍しく、同世代で同じ状況の患者さんの話を聞く機会はほとんどありませんでした。
一人で悩んでいるとき、僕と同じ障害をもつ方の奥さんのブログを見つけ、連絡を取ったところ自然に治ったとのことでした。このとき、暗闇の中に灯台の光が見えた気がしました。現在、僕の性機能の障害は治っていませんが、「治る可能性がある」「同じ障害をもつ人がいる」と知ることでとても安心することができました。がん経験者だからこそ、発信できる情報があるのだと思いました。

信頼できるのは患者さんの経験

やはり、同じような経験をされた患者さんの情報は頼りになりますね。

岸田さん:僕もそうでしたが、若い年齢の患者さんは、進学や就職、結婚、出産など、多くのライフイベントがある中でがんになります。病気のことや治療については、医師が説明してくれますし、たくさんの情報がネットにあふれています。しかし、僕が切実に欲しかったのは、実際にがんになった患者さんのライフイベントにおける体験談なのだと実感しました。

そうした思いから、「がんノート」を立ち上げられたのですね。

岸田さん:がんになったときから、自分の経験を通して、社会の役に立ちたいと考えていました。1回目の手術後から、ブログで自分の経験を情報発信していたのが、がんノートの前身です。
がんノートは、さまざまながん経験者に仕事やお金、恋愛、結婚などの日常にフォーカスしてインタビューし、生の声をWEBで配信する情報発信番組(https://gannote.com/)です。動画なら具合が悪いときは横になって、目を閉じて聴いているだけでも内容が分かります。
これまでに累計300名ほどの方にお話を伺いましたが、過去にインタビューを受けた方の気になるその後なども取り上げたいので、これからも長く続けていくことがとても大事だと考えています。

岸田 徹 さん

患者さんからの反響はいかがですか。

岸田さん:「いつも見ています」と言っていただけるのもうれしいのですが、「明日手術なので、勇気をもらいました」というコメントをもらったとき、「本当に届けたかった人に、届いている」ということが実感できました。
番組がきっかけで、日本に十数人しかいない希少がんの患者さんが、同じ病気の患者さんや家族と交流をもてたという話も聞きました。これからも、がん経験者たちが、気軽に、前向きにつながれる場所であればと思っていますし、視聴回数などにこだわらず、「がん患者さんが欲しい情報を発信する」という初心を忘れずに、生の声を届けていきたいと思っています。

普通の生活が、理想の生活に

現在も経過観察中とのことですが、生活に変化などはありましたか。

岸田さん:新しい仕事の傍ら、「がんノート」の運営、全国各地での講演活動なども行っています。忙しい毎日ですが、結婚もして、現在では、プライベートでも充実した生活を送れるようになりました。

ご結婚されて、妊孕性の問題が現実味を帯びてきたのではないでしょうか。

岸田さん:妻もがん経験者なので、病気への理解があって、コミュニケーションがとりやすく、子どもについてもきちんと話し合っています。僕の凍結保存していた精子を使って妊娠と出産を目指していますが、がん患者の不妊治療については現在、助成金は出るのですが、保険適用外で、妊娠までのハードルは高いと感じています。
がんになる前は、恋愛して、結婚して、子どもを作って、という生活が普通だと思っていました。しかし、がんを経験し、普通の生活は‟理想の生活”になりましたが、その理想に少しでも近づけるよう、二人で考えながら進んでいきたいと思っています。
(編集部注:その後、無事に子どもを授かったそうです!)

闘病を支えた「Think Big」の考え方

闘病を通じて、岸田さんの支えになったものがあれば教えてください。

岸田さん:できるだけ笑顔でいるように、面白いことを考えるようにしていましたが、精神的につらくなってしまうこともありました。そんなときは、お見舞いに来てくれた友人たちがメッセージを書き込んでくれた「お見舞いノート」を読み返し、元気をもらっていました。
メッセージの中に「Think Big」という言葉がありました。「大きく考えろ」「長い目で人生を見よう」という意味ですが、この言葉にハッとさせられました。そのときの僕は、「25歳で、がんになってつらい」という一点ばかりを見て、悲観していました。
でも、このがん闘病という一時期だけがつらいだけで、乗り越えられたら先があります。目の前のつらいことばかり見ていてはダメだ。今を乗り越えたら、きっといいことがあるから-。虫の目で考えていたことを、鳥の目で俯瞰(ふかん)した瞬間、心の持ちようが変わって安らぎを得ることができました。

最後に、希少がんと闘っている患者さんや、情報がなくて不安の中にいる患者さんたちへメッセージをお願いします。

岸田さん:がんに罹患(りかん)すると治療や生活などのさまざまな場面で、孤独を感じる場面があるかと思います。しかし、実は同じように悩みを抱えた仲間がいたりもします。「一人じゃないよ」とその存在がいることを知っていただき、また、つらくなったら一人で抱え過ぎず、家族や病院の職員、職場の同僚、パートナーなど誰でもいいですので自分が話しやすい人に気軽に頼ってみていただければと思います。
僕はがんになったことで、本当にやりたいこと、やるべきことに気づけました。これからも、がんノートを通して、一人でも多くの患者さんに「見通しとなる情報」や「仲間がいること」そして「笑顔」を届けられるよう、活動を続けていきたいと思っています。

岸田さん、ありがとうございました。

(原稿作成 2023年1月)