働き盛り世代の患者さんに聞く
~二宮靖典さん(慢性骨髄性白血病の急性転化)の場合~

Interview

働き盛り世代の患者さんに聞く

「早く復職しないと居場所がなくなる」
そんな焦燥感を乗り越えて

二宮 靖典さん
(会社員・50歳)

Yasunori Ninomiya

二宮靖典さん

製薬会社の管理職として、忙しくも充実した毎日を送っていたある日、慢性骨髄性白血病の急性転化が見つかった二宮さん。それはまさに、ジェットコースターで急降下したような気持ちだったそうです。“仕事人間”だったという二宮さんが、どのようにがんを受け入れ、前向きに治療に取り組み、職場復帰を果たすことができたのか。その道のりを振り返っていただきました。

プロフィール

二宮 靖典 さん Yasunori Ninomiya (会社員・インタビュー時50歳)
【疾患】慢性骨髄性白血病の急性転化
【発症時の年齢】45歳
【主な治療】
・骨髄移植、化学療法 など

ペイシェントジャーニー

ペイシェントジャーニー

がん発覚 会議中にかかってきた一本の電話

働き盛りの45歳でがんを発症されたそうですが、どのように見つかったのですか。

二宮さん:仕事の忙しさから、予定していた人間ドックを2ヵ月延期して、ようやく受診したのを覚えています。2日後に、健診センターから会社に電話がありました。会議中にもかかわらず、「どうしても本人に話がしたい」と電話を取り次がれた時点で、嫌な予感がしました。予感は的中して、「異常が見つかったので、血液内科ですぐに精密検査を受けてください」という連絡でした。

自覚症状はあったのでしょうか。

二宮さん:自覚症状はありませんでした。その当時は、大きなプロジェクトに携わっていて、かなりのハードワークでしたが、しんどいとはまったく感じずに過ごしていました。このプロジェクトの前からもずっとハードワークでしたが、人間ドックも毎年受けていて問題なかったので、健康なのだろうと思っていました。

いつ、どのように告知されたのですか。

二宮さん:早く病院に行かないと、と思いながらも仕事に追われる生活でしたので、大学病院で精密検査を受けたのは、健診センターの電話連絡から1週間経ったときでした。検査後、担当の先生から「白血病です」とはっきり言われました。自分でも「血液のがんかもしれない」という不安が頭をかすめていたので、「やっぱり」という気持ちとショックが入り混じった感覚でした。
白血病には、がん細胞が急速に増殖するもの(急性)とゆっくり増殖するもの(慢性)があるのですが、私は慢性(慢性骨髄性白血病:CML)である可能性が高いとのことでした。「詳しくは、翌週、骨髄穿刺(マルク)※1を行って、病気の進行具合を確認しましょう」ということで、診察室を出て、会計に向かっていると、「二宮さん、すぐ戻って来てください」と全館放送が入りました。

※1骨髄穿刺とは腰の骨に針を刺し、骨髄液を採取する検査のことで、血液を造る機能や血液疾患の原因、腫瘍細胞の有無などが分かります。白血病などの血液がんの診断や治療法の選択、治療効果の判定に重要な検査です。通称、マルク。

(国立がん研究センター がん情報サービス. 骨髄検査 , 2023年1月20日閲覧, https://ganjoho.jp/public/qa_links/dictionary/dic01/modal/kotsuzuikensa.html

そこで、どんなことを言われたのですか。

二宮さん:「追加検査の結果が出ました。それを見る限り治療を急いだほうがよいので、来週、マルクをするときは、入院の準備をしてくるように」と言われました。ほんの少し前に、「マルクの結果で、どのくらいの治療が必要か分かる。それから会社に話せばよい」と先生から言われたのが、「入院するので、すぐに会社に話を」に変わってしまいました。そして、慢性骨髄性白血病が急激に悪化する急性転化※2の可能性を指摘されました。急に目の前が暗くなり、奈落の底に突き落とされたように感じました。

※2慢性骨髄性白血病は、自覚症状はほとんどないので、多くは健康診断などで偶然発見されます。慢性の場合は、症状はゆっくり進行しますが、放置しておくと、急性転化期となり、急性白血病と同様に感染症や出血を生じやすくなり、治療が困難になります。

(恩賜財団済生会. 慢性骨髄性白血病, 2023年1月20日閲覧, https://www.saiseikai.or.jp/medical/disease/chronic_myeloid_leukemia/

社会からの隔離 自分の居場所を失って、心に大きな穴

とてもつらかったと思いますが、その後、どうされたのですか。

二宮さん:妻に電話して「帰ったら詳しく話すから」と伝えました。そして、その足でまっすぐ会社に行き、上司に話しました。その日が木曜日で、翌日は会社で引継ぎや整理をし、土日は家族と過ごして、月曜日には入院していました。この数日間は、気持ちが追い付かず、本当に厳しかったですね。あとで主治医や看護師さんから聞いたのですが、急性白血病や慢性白血病の急性転化の患者さんは、こんなふうにジェットコースターで落ちるようなスタートをするそうです。

それでもパニックにならず、落ち着いて行動されていたのは、製薬会社にお勤めということもあり、がんに対する予備知識があったからでしょうか。

二宮さん:確かに、病気や治療法については、それなりに知っているつもりでした。しかし、慢性白血病の急性転化は、自分としては絶望的な病名で、いろいろ調べても、厳しい情報しか見つからず、改めて事の重大さに気づきました。
慢性白血病は、外来でも治療ができ、多くの人は仕事も続けられる病気ですが、私は、急性転化の状態で、無菌室で、骨髄移植を待つという選択肢しかないと主治医からも言われました。「仕事が続けられない病気になってしまった」とかなり動揺しました。

二宮 靖典 さん

治療中は、つらいことも多かったと思います。

二宮さん:いきなり無菌室に入り、誰とも会えなくなったのはきつかったです。退屈だし、暇だし、すべてを整理して入ったわけではなかったので、仕事のことや家族のことも気がかりで-。会社の携帯電話やパソコンは持たせてもらっていたのですが、すべての仕事から自分が外れていくのを見るのはつらいものでした。大きなプロジェクトチームからも離脱しなければならず、チームに迷惑をかけてしまったという思いと寂しさをズルズルと引きずりました。上長を含めチームのメンバーは「治療に専念してください」と言ってくれて、ありがたかったのですが、「なぜこんなことになったのだろう」ということばかり考えていましたね。
私は、いわゆる「仕事人間」でしたから、社会とも仕事を通じてつながっていました。なので、仕事ができないことで、自分の居場所を失い、心にポカンと大きな穴が開いたように感じました。

入院まで、ご家族とも、ゆっくり話す時間はなかったと思います。

二宮さん:妻と息子がいますが、どんなサポートをしてほしいか、きちんと話もできないままでしたが、妻は気丈で、「きっと大丈夫」という一貫した態度で接してくれました。でも、息子はまだ8歳で事の重大さについては分かっていないようでした。私の両親は、白血病に対するイメージがかなり悲観的なものでしたので、ショックを受けている様子が伝わってきて、本当につらかったです。

主治医の言葉 血液のがんは治せる時代。治癒を目指そう

社会から切り離され、どん底のような思いをされていた中で、どんなことが前を向くきっかけになったのでしょうか。

二宮さん:私には主治医が二人いたのですが、病棟の担当だった若手の主治医が大変明快な先生で、「血液のがんは治せる時代です。一緒に治癒を目指しましょう」と言ってくれたのが大きかったです。当時の私は、自分がどこにいるかも分からず、悪いことばかりグルグル考えている状態でしたから、「どんどん検査をして、治療方針を決めていきましょう」という先生の言葉に、勇気づけられました。
慢性骨髄性白血病の急性転化では、最初の寛解導入療法※3に成功するかどうかで、移植を含めた全体の治療効果が変わってくるので、健康保険が適用される標準治療の中で一番強い治療を受けられるかどうかひたすら検査するわけですが、治療を受けられるように「少しでも体力を維持しましょう」とか「絶対感染しないように」という先生の言葉も励みになりましたね。

※3寛解導入療法とは、骨髄中の白血病細胞を減少させ完全寛解状態を目標とした強い化学療法(抗がん剤治療)のことです。ただし、寛解導入療法で完全寛解が得られても、体内にはまだ白血病細胞が残っている可能性があります。白血病の治癒のためには、白血病細胞を完全に根絶させる必要があるので、この後さらに寛解後療法(地固め療法など)を受けます。

(医療情報科学研究所 編. 病気がみえる vol.5 血液 第2版,メディックメディア,2017, p116-118.)

主治医の言葉が、治療へのモチベーションになったのですね。ほかの医療従事者との関係はいかがでしたか。

二宮さん:看護師さんたちは無菌室の私をいつも気遣い、こまめに様子を見に来てくれました。治療の影響で髪が抜け始めたときは、どうせ抜けるのなら坊主にしましょうと、バリカンで散髪してくれたりもしました。また、体力を維持するため、理学療法士さんがよく顔を出してくれました。私が無事に寛解導入療法を終えられたのも、医療従事者の皆さんのサポートのお陰だと感謝しています。

つらい副作用なども経験されたのですか。

二宮さん:化学療法のたびに、口内炎ができて、苦労しました。腸から栄養を摂るのは最後の手段だろうと思っているので、麻酔薬入りのうがい薬で口の中をまひさせて、なんとか食べ物を噛んで飲み込んでいました。この食べ方は、「こんなふうに頑張って食べている人もいるよ」と看護師さんから教えてもらった工夫です。

無菌室にいる間、ご家族との交流はありましたか。

二宮さん:妻が3日に1回洗濯物の交換に来てくれて、その際などにガラス越しに電話で話すのですが、私の誕生日に、息子が切り絵のケーキを見せてくれたのが、とてもうれしかったです。治療の励みになりましたね。

骨髄移植 家族にも大きな負担が

治療を続けながら、骨髄移植を待っていたのですね。

二宮さん:治癒のために、移植は最初からの治療方針でした。2016年12月に入院後、すぐに移植カウンセリングを受け、提供を受ける側(レシピエント)として骨髄バンクに登録しました。
1回目の寛解導入療法が終わり、地固め療法※4を行っていた2017年2月頃、ドナー(骨髄提供者)が見つかりました。私は血縁者に白血球の血液型(HLA型)が適応する人がいなかったので、見ず知らずのドナーの方には、本当にありがとうという気持ちしかありません。

※4地固め療法とは、寛解導入療法に続く第二段階で行われる治療のことです。寛解導入療法が効いても、まだがん細胞が残っていると考え、引き続き強力な化学療法を複数回行い、がん細胞を徹底的に叩いて治癒を目指します。

(医療情報科学研究所 編. 病気がみえる vol.5 血液 第2版,メディックメディア,2017, p116-117.)

骨髄移植を受けたあとは、どうなりましたか。

二宮さん:移植後、数年間は免疫力が低下するので、退院後も、徹底した感染対策が必要になります。家の中は掃除を徹底し、冷暖房機器も新品にしました。食べ物からの感染にも注意して、作り置きもダメで、電子レンジでの調理もダメ。妻は、そういった説明を別に詳しく受けてくれたようで、感染対策で大きな負担をかけることになりました。「ありがたいけど、申し訳ない」と思っていましたね。

家族との絆は深まったのではないでしょうか。

二宮さん:退院後、会社に復帰するまでのおよそ半年は、ほぼ家の中で過ごしました。感染対策で行動範囲が限られると、会社の人や友人との付き合いはたちまち減って、自分のそばにいるのは家族だけになります。改めて、家族の大切さ、ありがたさを認識する時間だったと思います。

移植片対宿主病(GVHD)※5の影響などはありましたか。

二宮さん:紫外線はGVHDの原因になるとのことで、移植から5年経過した今もずっと長袖で過ごしています。当初、皮膚の色はどんどん白くなるわけですが、一方で、GVHDの症状なのか、シミがすごく出て、困ったことがありました。がんの経過がよいので、シミぐらい仕方ないのかな、とも思いましたが、男であっても気になったので、何か対策があればしておきたかったなと思います。

※5移植片対宿主病(GVHD)とは、骨髄移植によってドナー由来のリンパ球が患者(宿主)を非自己と認識して攻撃する病態のことです。

(医療情報科学研究所 編. 病気がみえる vol.5 血液 第2版,メディックメディア,2017, p206.)

二宮 靖典 さん

主治医の言葉 感染に注意したら復職できる

職場復帰に向けて、どのように行動されましたか。

二宮さん:治療中から、早く仕事へ復帰したいとずっと思っていました。何の根拠もなく、先生に「最短で退院しますから」と言ったりして。心のどこかに、早く復帰しないと、居場所がなくなってしまうという焦りがあったのだと思います。
よく話し合いましたが、最終的には先生から「この時期なら、感染に注意すれば職場復帰できます」という言葉を、一生懸命引き出していった感じです。そのGOサインを待って、会社と交渉を始めました。

これまで通り働けると思う一方で、GVHD対策や感染予防など、仕事の両立は大変だったと思います。

二宮さん:確かに、当時はまだ免疫抑制剤を飲んでいましたし、感染のリスクを避けるため、早朝の電車で通勤していました。でも、そんな感染対策はしていても、仕事は普通にできると思ってほしいわけです。しかし、会社は私の体調を心配してくれて、無理はさせないよう気遣ってくれているようでした。
私もしばらく悩んだのですが、「待っていても、自分がやりたい仕事は来ない」と気づいたのです。そこで、「自分から“これがしたい”と声を出してみよう」と。そうして、新しい部署で、発言したり、示したりすると、気持ちも上向きになってきました。
会社が仕事量を調整してくれていたのは、私に焦る必要はない、と言いたかったからだと思いますが、「もっとできる、もっと仕事がしたい」と、自分を認めてもらいたくて焦っていたのは事実ですね。

がんを経験されたことで、これからの仕事に生かせることもあるのではないでしょうか。

二宮さん:現在、私は、最前線で薬を届けるという仕事から少し離れて、そのための計画を立てるチームで仕事をしています。私が復帰後に声を上げて、立ち上げに関わったチームです。しっかり調査したり、分析したりすることが求められる部署で、これまで以上に患者さんや医師の思いを慎重に調べるようになりました。実際、分かっていたつもりでも、自分ががんを経験して初めて気づいたことも多かったので、「患者さんの思いは本当にそうだろうか」ということを、もう一度よく考えるなど、経験が価値に変わるような行動をしたいと思っています。
また、経験を生かすという意味では、私を含めたがんサバイバーの社員たちの経験を、会社が復帰プログラムに反映していますので、より働きやすい制度が整っていくのではないかと期待しています。

目標に向かって、前向きに進んでいくために

最後に、同じような病気と闘っている患者さんに、メッセージをお願いします。

二宮さん:病気が治るか治らないかは別として、自分の実現したいものに向かって進んでいくという道を選択していっていただきたいと思います。決して簡単ではないと思いますが、今までと違う自分を受け入れることができれば、次の道は必ずひらけてきます。「なんで自分が…」とばかり考えていては、時間がもったいないですから。ネガティブよりもポジティブな気持ちでいる方が、目の前の困難に立ち向かう活力は湧いてくると思います。

二宮さん、ありがとうございました。

(原稿作成 2022年12月)